昨年、上野家本家12代当主であった上野弥一郎と同志社との関係書類を京都府総合資料館での閲覧した時の感想を、昨年9月13日付のダイアリー「父の面影と同志社」で書いた。その閲覧時、偶然に京都大学設立に関して、上野弥一郎直筆の建議書を見つけた。
京都大学百年史にも記載されているその建議は明治27年4月8日京都府議会議員であった上野弥一郎が京都府議会において、京都大学を設立するための建議を説明し、文部大臣宛に提出したもの。直筆の原稿そのものの文面が公式に記載されていた。
建議
京都大学校設立ノ企望ヲ本会ヨリ文部大臣へ建議スルノ議
説明
東京ハ輦穀ノ下英俊才士ノ淵叢ニシテ固ヨリ大学ナカルヘカラス然リト雖モ古ヨリ関東関西自カラ径庭アリ況ンヤ四千万余ノ同胞子弟ヲ教育スルニ唯一ノ大学ヲ以テセント欲スルハ国家教育上最モ遺憾トスル所ナリ且社会事物ノ進歩ハ常ニ各人競争ノ結果ニ帰ス而シテ各人競争ノ原因ハ彼此対立ノ地位ニ置クニ在リ故ニ今日新ニ大学ヲ京都ニ設置シ以テ東京ニ対峙セシメ而シテ関東関西互ニ相磨励セシムルトキハ学術普及スルノミナラス智識競進ノ念是ヨリ益々切ナラントス是レ大学ノ増設ヲ要スル所以ナリ
発議者 上野弥一郎 明治27年 4月8日
京都に大学を設立するに際し将来を見据えた教育ビジョンを含んだ建議を上野弥一郎が説明し発表した文面に接し、明治時代に活躍した京都人の気概を感じてやまない。
写真:上野弥一郎建議:京都大学百年の出来事より抜粋
京都大学が設立されたのは明治28年。
「九鬼隆一秘書京都大学條例」
京都大学を設立するための建議を説明し、文部大臣宛に提出した明治27年から遡ること3年、九鬼隆一君旧草稿ノ分「秘書 京都大学条例」と記された元本が
舞鶴の上野家本家に存在していた。
「秘書 京都大学条例」は明治24年8月、京都大が誕生する4年前に九鬼隆一が制作したと思われる草稿で、京都大学の設立の目的、成り立ち、設立規模に至るまで詳細に記されている。
東京大学しか存在しなかった日本、当時、大阪もその候補地に挙がっていた時代である。
既に文部省の担当者でなかった九鬼隆一が京都大学設立に対してどのような影響力をどのように発揮したのか?
上野彌一郎が京都大学設立の建議をしたことと、九鬼隆一が記した、京都大学條例が上野家本家の蔵から出てきたことは単なる偶然には思えない。
上野彌一郎と九鬼隆一とはどのような関係であったのか?数多くが謎のままである。
資料:上野弥一郎建議書・九鬼隆一秘書京都大学條例
京都府総合資料館所蔵 京都府立総合資料館の承諾を得て撮影。
上野弥一郎建議文:京都大学百年の出来事より抜粋
※文責上野聡司